〈0033 じっくり考えるべき提案〉

メイの運転するビュイックは、国内線ターミナルの前に着いた。

メイは一番右の車線にゆっくりと車を停め、ハザードランプをつけた。

黒いバックパックを胸に抱えていたシンシアは、助手席のドアを開ける前にメイを振り返り、軽く頭を下げた。

「送ってくださって、ありがとうございました」

「気をつけて。着いたら連絡してくださいね」

メイの言葉は、ごく自然だった。シンシアはほんの一瞬、自分までキャティとメイの子供になったような気がした。

もちろん、それはあまりにも図々しい考えのように思えて、すぐに頭から追い払った。

「はい。ご連絡します」

シンシアが助手席から降りようとした、そのときだった。後ろからクラクションが聞こえた。最初は道を空けてほしいという意味かと思ったが、バックミラーをちらりと見たメイが目を丸くした。

「リディア・コールマン代表ですよ」

シンシアも振り返った。バーガンディ色のコルベットが、ビュイックの後ろに停まっていた。運転席の窓から頭だけをひょこっと出したリディアが叫んだ。

「メイさん、駐車場に停めましょう。お話があるんです」

「シンディにお話ですか?」

「いいえ! 私がメイさんにお話があるんです! ぐるっと一周して、駐車場へ行きましょう!」

「私にですか? ……はい。分かりました」

メイは戸惑いながらも、リディアに言われたとおり駐車場へ車を向けた。

シンシアはふと思い当たり、ズボンのポケットからiPhoneを取り出した。画面にはリディアからの不在着信と、バンドのメンバーたちから届いたメッセージが並んでいた。

メイと話しながら来るあいだ、携帯電話が振動していたことにも気づかなかった。

Coleman, Lydia> シンディ、電話に出られないみたいね。キャットにかけてみる。

St.Claire, Louise> 私は夫と息子と日曜日を過ごしています。今回はお見送りに行けそうにありませんね。また来週会いましょう。

Fisher, Katty> シンディ、もう空港に着いたでしょ? ちょっと待ってて。リディが見送りに行くって。

Coleman, Lydia> シンディ、キャットに連絡したよ。今、メイさんの車に乗ってるんだよね? 私も空港へ行く。

シンシアは、自分を見送るためにわざわざ空港まで来てくれたリディアに、何だか恐縮してしまった。

そして急いで、ルイーズとキャティに返信した。

Me> 今、コールマン代表に会いました! メイさんと一緒に駐車場へ車を停めているところです。

Fisher, Katty> よかった! 気をつけてね、シンディ。

St.Claire, Louise> 気をつけて。着いたら知らせてくださいね。

空港の駐車場に、バーガンディ色のシェビー・コルベットと、グレーのビュイック・エンビジョンが並んで停まった。

コルベットから降りたリディアは、ジャケットの襟元を合わせ、ぶるっと身を震わせた。

「天気予報で、今朝から急に冷え込むと言ってましたけど。メイさんは寒くないですか?」

「ボストン出身の私でも、南部に長く住んでいると、これくらいで肌寒く感じますね」

メイはそう答え、シンシアを振り返った。

「シンディは、それほど寒くないでしょう?」

「はい。むしろ昨日は暑かったくらいです。今も、冬にしては暖かく感じます」

リディアが小さく笑った。

「さすが北東部の子ね」

急に冷え込んだ天気の話で口火を切ってから、三人は駐車場からターミナルへ歩いていった。

シンシアはリディアと並んで歩きながら、ぽつりと言った。

「代表、わざわざお見送りに来てくださらなくてもよかったのに……」

「いいの。見送りくらいしないと。子供のいる母親たちは、週末のうち少なくとも一日は子供につきっきりだけど、私には夫も子供もいないから。あなたを見送るわ。それに、そのあとメイさんに相談したいこともあるし」

その言葉を聞き、後ろを歩いていたメイが首をかしげた。

バンドを普通の会社にたとえるのは難しいが、配偶者が所属するバンドのリーダーなら、広い意味では配偶者の上司に当たる。

その人が、ぜひ話したいことがあると車まで呼び止めたのだから、きっと「コーヒーでも一杯」という程度の軽い話ではないのだろう。

ターミナルの中は、人でにぎわっていた。ニューオーリンズを離れる観光客たちのスーツケースが転がる音、走らないよう子供を叱る親の声、構内放送がひとつに混じり合っていた。

リディアはターミナル内のコーヒーショップで、メイとシンシアに温かいコーヒーを一杯ずつ買い、自分の分も注文した。

三人は店の脇にしばらく立って、コーヒーを飲んだ。シンシアとメイが少しずつカップを空にしていくあいだ、リディアはときどきひと口ずつ、ゆっくり飲んでいた。

リディアがシンシアのほうを向いた。

「来週のスケジュールはSlackで送っておくね。明日、二十日の月曜日から授業が始まるんでしょう?」

「授業は火曜日からです。月曜日はマーティン・ルーサー・キング・デーですから」

リディアはコーヒーのカップを口へ運びかけて、止めた。

「ああ。日付の感覚までなくなってた。バンドの代表が祝日も把握してないようじゃ駄目ね」

リディアは短くため息をつき、改めてシンシアを見た。

「じゃあ、火曜日からはしっかり授業を受けて。来週の金曜日の午後に会おう」

「はい。今週もありがとうございました」

「お疲れさま」

コーヒーを飲み終えたシンシアは空の紙コップを捨て、メイにも挨拶した。

「送ってくださって、ありがとうございました」

「気をつけて帰ってくださいね。着いたら連絡を」

メイは先ほどと同じことを言った。まるで水辺に一人で出した子供を案じるような心配ぶりに、シンシアはただ、はにかんで笑った。

「はい」

シンシアはバックパックを背負い、保安検査場へ歩いていった。列の手前まで来て一度振り返り、二人に小さく手を振った。リディアも手を上げ、メイは軽くうなずいた。

シンシアの姿は人波の中で少しずつ小さくなり、やがて保安検査の先へ消えた。

メイが先に口を開いた。

「あの子、大変でしょうね。飛行機で来て、毎週二日も三日も別の街で過ごして、そのうえ学校にも通うんですから」

リディアは、まだシンシアの消えたほうを見ていた。

「ええ。分かっています。だから、いい人材を手放したくないという欲は抑えないといけないんですが、自分の欲を抑えるのが一番難しいですね。あの子に無理をさせているんじゃないかって……」

リディアの返事はゆっくりだった。

メイは彼女を見た。リディアは手に持ったコーヒーをひと口飲んだ。もう冷めてしまったらしく、ほんの少し顔をしかめた。

「その問題にも関わることで、考えていることがあるんです。キャットの奥さんとして、メイさんにも相談したいことがありまして」

メイは、この先に続く話が軽い世間話ではないと察した。シンシアが消えた保安検査場から目を離し、リディアを正面から見た。

「どうぞ、コールマン代表」

「もし、バンドの活動拠点をニューヨークへ移したら、キャットとメイさんも、お子さんたちを連れて来ていただけますか?」

メイはすぐには答えなかった。

空港正面のガラス壁の向こうを、車が通り過ぎていった。スーツケースの車輪の音と構内放送、人々の会話が低く混じり合っていた。

「ニューヨークへ、ですか?」

「活動の場を広げるなら、いつかは考えなければならないと思っていました。ライブも、レコーディングも、一緒に仕事をする人に出会う機会も、もっとありますから」

リディアは、シンシアが消えたほうをちらりと振り返った。

「シンディも、ボストンから通うには今より負担が減るでしょう。もちろん、それでも別の街ではありますけど」

メイは片手で車の鍵を握ったまま、ゆっくりと息を吸った。

「キャットには聞いたんですか?」

「まだです。先にメイさんにお聞きしたかったんです」

「どうしてですか?」

「キャットは、もっと大きなステージで演奏する機会があると聞けば、まずはいいねと言いそうなので」

リディアは少し言葉を切ってから、続けた。

「でも、今回はキャット一人が動く話ではありませんよね。メイさんとお子さんたちの生活も一緒に変わることですから、現実的にどうなのか、先にお聞きしたかったんです」

メイの表情は、それほど変わらなかった。

彼女はしばらくリディアを見つめていた。その言葉が礼儀なのか、計算なのか、それとも両方なのか、確かめているようだった。

「私の仕事も、家族の住まいも、子供たちのデイケアも、全部計算し直さなければなりませんね」

リディアがうなずいた。

「だから、メイさんに先に伺っているんです」

メイが小さく笑った。

「代表は、人を説得するとき、夢からお話しにはならないんですね」

「夢はキャットに話せばいいんです。メイさんには、まず現実からお話ししないと」

リディアは淡々と答えた。メイはそれを聞き、今度は少し長く笑った。

「それはそうですね」

メイは手のひらの中で、車の鍵を一度転がした。

「すぐにはお返事できません。私はニューオーリンズへ来て、仕事を見つけて、キャットと出会って、結婚して、子供を産みましたから。ここに築いた生活を置いていくには、考える時間も、覚悟も必要です」

メイは少し間を置いた。

「でも、代表のご提案が大きな意味を持つことは分かります。ニューヨークへ行くというのは、もっと大きなチャンスを選ぶということでしょうから」

車の鍵をポケットにしまい、メイが尋ねた。

「代表。キャットを、どうしても連れていきたいんですね?」

リディアは迷わず答えた。

「必ず連れていって、もっと多くのステージとチャンスを与えたいと思っています」

〈0034 雲の上の眠り、地上のミス〉

2025年1月24日、金曜日。午後5時45分。

ボストン・ローガン国際空港を出発した旅客機が、ルイ・アームストロング・ニューオーリンズ国際空港の滑走路に着陸した。

三時間四十五分のフライトでこわばった手足を揉みほぐしながら、乗客たちは座席の下や頭上の収納棚から、それぞれの荷物を取り出した。

乗客たちが狭い通路を通って全員降りたあと、機内を点検していた中年の客室乗務員は、後方の窓際の席で、毛布を首まで引き上げて眠っている若い女性を見つけた。

「お客様? お客様」

「……!」

シンシアはぱっと目を開け、辺りを見回した。

「え? もう着いたんですか?」

「ずいぶんお疲れだったんですね。離陸してすぐにお休みになったので、毛布をお掛けしました」

シンシアは恥ずかしそうに、毛布を客室乗務員へ返した。

(課題も試験もなかった新学期の最初の週なのに、もうこんなに疲れてるなんて……これからバンド活動、どうしよう)

シンシアは座席の下に入れておいたナイロンのショルダーバッグを取り出し、肩に掛けた。

最後に機内を出たシンシアは、ターミナルのガラス越しに外を眺めた。

日が沈んだ空には、まだかすかな明るさが残っていた。駐機場の端では、解けきらない雪が照明を浴びて白く浮かび上がっていた。

(大雪が降ったって聞いたけど……まだ解けてないんだ)

去る一月二十一日、めったに雪の降らないニューオーリンズに、二十センチ近くにもなる記録的な大雪が降った。

ハリケーンなら誰もが備え方を知っている街だったが、大雪は違った。

除雪の機材も、経験も、まるで足りなかった。

ほかの街なら、ただの大雪で済んだかもしれない積雪量が、ここでは災害になった。

街は三日近く麻痺し、主要道路が再び開通して、空港の運航も正常に戻り始めたのは、前日の二十三日になってからだった。

空港の外へ出ると、聞き慣れた声がした。

「シンディ、こっち」

乗車エリアの前に、長いコートを着たリディアが立っていた。

少し離れたところでは黒いシボレー・サバーバンの4WDが待機しており、運転席から降りたウィテカーが二人を見ていた。

シンシアはリディアをじっと見て言った。

「代表ご自身が迎えに来てくださらなくてもよかったのに」

「しっ。そういうことは私が決めるの」

リディアは笑って、シンシアの唇に人差し指をそっと当てた。

シンシアの顔が、たちまち赤くなった。

ウィテカーが後部座席のドアを開けた。

「ようこそ、ミス・レノスキー。またお目にかかれて嬉しく存じます」

「私もです、ミスター・ウィテカー。でも、今日は車が違うんですね?」

「コンチネンタルには休んでもらっています。まだ日陰の道路には氷が残っていますので」

サバーバンの後部座席に座ったシンシアが、小声で尋ねた。

「ウィテカーさんは、ミズ・サン=クレールの専属の運転手だと思っていました」

「違うよ。VIPの送迎を専門にする会社に所属してるの。ルイーズの家の仕事をよく引き受けているけど、今日みたいに、私も必要なときはお願いするんだ」

「今日みたいなとき、ですか?」

「まだ雪が解けてないところが多いでしょう。私のコルベットは、今日は家でお休み。こんな日に乗り出したら、車もくるくる、私も一緒にくるくる回っちゃう」

黒いサバーバンは、湿った冬の道を安定した走りで進んでいった。

晴れた空が、急速に暗くなっていた。街灯の光が、濡れた路面と道端の残雪に広がっていた。

道路を覆っていた雪の大半は除かれるか解けるかしていたが、空気はまだ冷たかった。

(先週は暑くて、ジャケットまで脱いで歩いてたのに。帰る日から寒くなって、火曜日には大雪だなんて)

ほとんどの車が、普段より速度を落として走っていた。

大通りの雪はほぼ消えていたが、路面は雪解け水でところどころ濡れ、縁石沿いには灰色になった雪の山が残っていた。

昼間でも日陰になる場所にはまだ氷が張りつき、ヤシの木の根元やマルディグラの飾りの下にも雪が残っていた。

真冬と南国が混じり合ったような風景だった。

「マルディグラのお祭りは、どうなるんですか?」

「今日は寒いから、クルーの人たちも少し練習を控えてるだけよ」

リディアが微笑んだ。

「この街のお祭りは止まらないの」

ちょうどそのとき、ピックアップトラックに牽かれたフロートが一台、一番右の車線をゆっくり進んでいた。

厚手の冬服にマフラー、手袋まで身につけた地元のクルーのメンバーたちが、通り過ぎる車に手を振り、歓声を上げていた。

黒いサバーバンは、その横を静かに通り過ぎた。

遠ざかるフロートを見ながら、リディアがつぶやいた。

「私たちは、このまま練習室へ行くよ」

少しして、付け加えた。

「あの人たちがパレードをやめないように、私たちも練習はやめない。ただ、今日は何曲か合わせるだけにしよう。残りは明日」

「はい」

シンシアは疲れた顔でうなずいた。

ところが、その夜。

四曲目が終盤に差しかかったとき、シンシアは一拍目を落とした。

「……!」

胸がひやりとした。それでも彼女は、すぐに続くフレーズにも、毎回同じ位置で短い休符を入れた。

最初から意図したリズムの変形だったかのように、ミスを自然につなげたのだ。

目を閉じてハミングしていたリディアが、片目を薄く開けてシンシアを見た。

ルイーズはすぐにシンシアの顔色を確かめた。

両手は絶えず鍵盤の上を動いていたが、その視線だけはずっとシンシアに向けられていた。

ソロを終えたキャティも、スツールに腰掛け、トランペットを膝に載せたまま、静かにシンシアを見守っていた。

最後のハミングのフレーズで曲を締めくくったリディアが言った。

「今日はここまでにしよう。シンディが疲れすぎてる」

「……すみません」

「謝ることはないよ」

リディアは首を横に振った。

「拍を落としたのは疲れてるからで、どうして疲れてるかは、みんな分かってるんだから」

リディアがシンシアと話しているあいだ、キャティとルイーズは一瞬、目を合わせた。

長く一緒に演奏してきた二人にとって、それはほとんど会話と同じだった。

(対処は的確だった)

(でも、そんな対処が必要になった状況そのものが問題です)

リディアは誰より先に、マイク用のアンプの電源を落とした。

「残りは明日」

「お、思ったより早く仕事が終わったね」

キャティはわざと明るい声で言い、シンシアの肩を軽く叩いて笑った。

「もう八時近いね。夕飯、どうする?」

「キャットは帰って、メイと子供たちと食べて」

リディアはきっぱりと言った。それからルイーズを見た。

「ルーも、今日は旦那さんが家にいる日でしょう? 一緒に夕飯を食べて」

そしてシンシアに微笑みかけた。

「私には夫も子供もいないから、今夜はシンディと食べる」

うつむいていたシンシアが、ゆっくり顔を上げた。

リディアは彼女を見て、小さく笑った。

「それから今日は、ぐっすり寝かせるからね」

〈0035 楽しく温かな家へ〉

ニューオーリンズ、セント・クロード地区。

サテン・クレセントのメンバーたちが練習室として借りている平屋建ての建物の前で、車が一台、静かに停まる音がした。

「ジョセフが来ましたね」

ルイーズはテーブルに紅茶のカップを置き、立ち上がった。

二十分前、ルイーズは夫のジョセフ・サン=クレール市議会議員に電話をかけ、迎えに来てほしいと頼んでいた。

ジョセフは異例の大雪への事後対応で、金曜日の夜まで市庁舎に残り、状況を確認していた。一緒に帰ろうという妻からの電話を受けると、そのまま車でここへ来たのだった。

ルイーズは練習室の玄関ドアを開け、外へ手を振った。

「ジョー! あなた、中に入ってお茶でも飲んでいって」

「お茶はいいよ。でも、バンドの皆さんには挨拶していこう」

落ち着いた、澄んだバリトンが聞こえた。やがて革靴の音がこつこつと近づき、ジョセフ・サン=クレールが練習室へ入ってきた。

シンシアは思わず目をこすった。ジョセフが入ってきた瞬間、室内の照明が一段明るくなったような錯覚を覚えたからだった。

若い頃のアラン・ドロンのようだった。もっと背が高く、もっと物腰が穏やかだという違いはあったけれど。

「これが……美男子のオーラ?!」

思わず感嘆が口をついて出た直後、シンシアの顔が一気に桃色に染まった。

練習室に、どっと笑いが起こった。

「シンディ! 危ないって! その人、ルイーズの旦那さんだよ!」

キャティがそう叫んだ。ジョセフもとうとう、ふっと笑ってしまった。

「ち、違います! 反射的に口から出ただけです! つい!」

シンシアは両手をばたばたさせ、慌てて弁解した。

ジョセフは人のよさそうな笑みを浮かべたまま、軽く頭を下げた。

「初めまして、ミス・レノスキー。お褒めいただいて嬉しいのですが、妻がすぐ隣にいますので」

「この人は私のものです。あげませんよ」

ルイーズはジョセフの腕にぎゅっと抱きつき、シンシアに向かって得意げに宣言した。

シンシアは悲鳴をのみ込むようにソファへ飛び込み、そのまま突っ伏した。クッションを抱えて顔を深く埋め、もう頭を上げられなかった。

その姿を見て、キャティがまた腹を抱えて笑った。

「シンディ、おめでとう! 人の旦那さんを見た瞬間に口説くっていう実績を解除したね!」

「口説いてません! 口が先に動いちゃったんですってば!」

シンシアはまだクッションに隠れたまま抗議した。

リディアがゆっくりと首を横に振った。

「サン=クレールさんを初めて見ると、みんな一度くらいはそうなるよ。あなたがおかしいわけじゃない」

(不動産と石油で大儲けしてる家のお嬢さんのルイーズが、どうして弁護士と結婚したんだろうと思ってたけど……弁護士が資産家の娘婿になったんじゃなかったんだ。お金持ちのお嬢さんが、あんな美男子をさっさとさらっていったんだ)

シンシアは心の中だけで、そうつぶやいた。

口に出した瞬間、ルイーズにティーポットで頭を殴られそうな予感がしたからだった。

外はもう暗かった。街灯の下で濡れた道路が光り、建物の壁沿いに残る雪の山が、かすかに浮かび上がっていた。

練習室の前では、ジョセフの自家用車が静かに持ち主を待っていた。

ネイビーの2015年型フォード・トーラス。

十年経った車だったが、よく手入れされていた。ただ、ドアの縁やホイールには、長年の使用でついた細かな傷がところどころに見えた。

ジョセフは妻のために、後部座席のドアを開けた。

「ジョー、帰りにキャットも送っていこう。メテリーで降ろしてあげればいいから」

「分かった。ちょっと待って。先に後ろを片づけるよ」

ジョセフは身をかがめ、後部座席に置いてあった書類鞄と傘、充電ケーブル、悪天候に備えて積んでいたレインパーカを、手早く助手席へ移した。

キャティはその隙を逃さず、さっと後部座席に乗り込んだ。

「えへん。ありがとうございます、ありがとうございます。市議会議員様のお車に乗せていただけるとは、光栄です」

「ミズ・フィッシャー。今さらどうしたんですか」

「駄目よ、ジョー。相手にしないで。キャットはそのうち調子に乗って、市政についておかしな提案まで始めるから」

「議員! 率直に申し上げて、UFO観察の予算は組むべきだと思います! ニューオーリンズの観光振興のために!」

「キャット。静かにしてください」

ルイーズは、先に後部座席に乗ったキャティの膝へハンドバッグをぽんと投げ、それからリディアとシンシアに手を振った。

「シンディ、ゆっくり休んで、また明日。リディも」

「みんな、私のことを忘れないで!」

キャティが後部座席から場違いな別れの言葉を叫ぶと、ルイーズはすかさず手でその口を塞いだ。

「皆さん、練習お疲れさまでした。どうぞよい夜を」

ジョセフはリディアとシンシアに微笑み、軽く会釈した。それから運転席に乗り込み、エンジンをかけた。ネイビーのフォード・トーラスは静かに練習室の前を離れ、メテリー方面へ走っていった。

数分後、ウィテカーの運転するサバーバンが練習室の前に停まった。

ウィテカーはいつものように運転席から降り、大股で歩いてきて、乗客のために後部座席のドアを開けた。

「こんばんは。ミズ・コールマン、ミス・レノスキー」

「ウィテカーさん、また来てくださってありがとうございます」

「……あ、ありがとうございます!」

「皆様をお送りするのが、私の楽しみでございます」

ウィテカーは穏やかに笑い、頭を下げた。

ゆったりと後部座席に座るリディアと、ナイロンのショルダーバッグを抱えて慌ただしくそのあとに乗り込むシンシアを乗せると、サバーバンは大きな車体を響かせながら、冬の夜の道へ進み出した。

「路面電車が止まってるのは残念ね、シンディ。普通に動いていれば、うちの近くまで路面電車で行けるんだよ。乗り換えもいらないの」

「運休しているのは……大雪のせいですか?」

シンシアがじっと見つめながら尋ねると、リディアは暗い街並みを眺めながら答えた。

「今は雪と氷で、ほかの路線も止まってるね。でも、私たちが乗る路線は、その前から走れなくなってたの」

「その前からですか?」

「何年か前に、線路のそばで建設中だったホテルが崩れる事故があったの。それから何年も走れなくなって、去年の五月にやっと再開したんだけど、ほどなく信号設備や線路の補修で、また止まっちゃったんだ」

リディアは窓の外へ目を向けた。

「路面電車が好きな人は多いのにね……いつか普通に動くようになったら、乗ってみよう」

それからリディアは、運転席へ向けて急いで付け加えた。

「もちろん、ミスター・ウィテカーに車で送迎していただくのも好きですよ」

ウィテカーは振り返らず、バックミラー越しにリディアと目を合わせて笑った。

「ミズ・コールマン。私もニューオーリンズ市民として、路面電車のあのゆったりした時間が好きです。一日も早く、また走るようになってほしいものですね」

そんな話をしているうちに、車はウェアハウス・ディストリクトの東側へ差しかかっていた。