<0005. Fear, But Don’t Retreat>
ドラムはいなかった。代わりに、ノートパソコンにつながれたドラムマシンがあった。
本格的なオーディションは、リディアの合図で始まった。
「ワン。ツー。スリー。フォー」
一曲目は、オスカー・ピーターソン・トリオ版の〈酒とバラの日々(Days of Wine and Roses)〉のカバーだった。
まず、ルイーズのピアノ・フレーズが流れ出した。ドラムマシンは、ごく小さな音で拍だけを刻んでいた。本物のドラマーがいないぶん、リズムの空白は露骨に浮かび上がっていた。
その空白へ、シンシアは慎重に自分のリズムを流し込んだ。
最初から、見せつけるような演奏はしなかった。
ルイーズのピアノ・フレーズが不意に速くなっても、シンシアは派手なピッキングの速弾きやタッピングで応じたりはしなかった。低く長いフレットレスのラインで、曲の底を滑るように支えるだけだった。
リディアは、最初は無表情で聴いていた。
だが、ある瞬間からハミングとスキャットを交互に入れながら、ボーカルを重ね始めた。ルイーズもピアノのコードをさりげなく変えた。
シンシアは崩れず、自分の流れを保った。
いや、自分の流れに固執したというより、三人がどこへ動こうとしているのかを聴いていた。
そのとき、キャティがわざと斜めから割り込むようにトランペットを吹き込んだ。
シンシアは目を大きくした。
だが、手は止まらなかった。長く伸びるフレットレスベースのラインは、一瞬揺れたように見えたあと、自然にキャティのトランペットの下へ回り込んだ。
オーディション用に短くまとめた曲だった。一曲目のテストはすぐに終わった。
キャティがにやりと笑った。
「おや。怖がりだけど、逃げはしないね」
ルイーズが静かに言った。
「それは、かなり大事なことですよ」
ルイーズはシンシアを見た。
「シンシア。今、わざとフレーズの入りを少し早めたんです。気づきましたか?」
「はい」
シンシアはベースのネックから手を離さずに答えた。
「それで、ミズ・サン=クレールの左手がどこへ動くのかを見ていました」
ルイーズの眉が、ほんの少し上がった。
「いい判断です」
キャティがすぐに笑った。
「ヨウ! ルーに褒められたじゃん。合格だね」
シンシアは少し戸惑った顔で首を横に振った。
「まだ一曲目が終わっただけです……。私の実力も、まだちゃんとお見せできていません」
そこで初めて、リディアが微笑んだ。
「分かってる。だから、あと何曲かやってもらうつもり」
するとキャティは、トランペットのマウスピースを拭いていた乾いた布を横へ放り、口元を緩めた。
「Hon、私らについて来られる?」
ピアノの前で、ルイーズもかすかに笑みを浮かべて尋ねた。
「このまま行きますか?」
シンシアは、ひどく怖がっているようには見えなかった。
緊張しているわけでもなかった。
かといって、余裕たっぷりに笑って自信を見せているわけでもない。
代わりに、落ち着いた真剣な声で答えた。
「ついて行きます」
そして、そのままフレットレスベースの弦を軽く弾いた。
ドンドンドン。
ドン――ドドドン。
ドンドン。
キャティの目尻が上がった。
『へえ。やるじゃん、この子』
ルイーズも、ごくわずかに微笑んだ。
『若いのに、意外と度胸がありますね』
二人は短く視線を交わした。
リディアが手を上げた。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
<0006 オーディション合格>
二曲目、三曲目、四曲目まで終え、いよいよ五曲目が始まった。
キャティが先に飛び出し、短く鋭いトランペットで空気を切り裂いた。
それまでの柔らかなスタンダードの雰囲気は消えていた。
その瞬間、シンシアの入りがほんの少し遅れた。
だが次の拍では、逃げ出したのではなく、道を確かめてから追いついたかのように戻ってきた。
そして次のフレーズでは、むしろ彼女のベースが弾むように前へ出た。
五曲目が終わり、オーディションも終了した。
リハーサル室の中で、四人は長く息を吐いた。
最初に口を開いたのはキャティだった。
「今のセッションで、あんたは一回だけ前に出た。なんで?」
シンシアは少し驚いた顔で頭を下げた。
「あ、すみません」
キャティは呆れたように笑った。
「いや、なんで謝るの? 理由を聞いただけなんだけど」
リディアがシンシアを見た。
「自分で判断したの?」
シンシアはしばらく、自分の指を見つめた。
「私の……指が、そう判断しました」
三人は黙って彼女を見た。
シンシアが慎重に付け加えた。
「この曲では、前に出るときだって」
その瞬間、キャティが爆笑した。
「クハハハッ……! この子、完全にジャズ体質だわ」
リディアがうなずいた。
「そうみたいね」
ルイーズも落ち着いた声で言った。
「ええ。ジャズを分かっている子です」
もしシンシアが、ただ三人について来るだけだったなら。
三人は迷っていただろう。
だが、この子は一度だけ前に出た。
そして、その一度はやりすぎではなかった。
リディアが言った。
「本当に良かったのは、さっき前に出たときも、派手に音をばら撒かなかったこと」
キャティが指で床を示した。
「必要なぶんだけ。でも、出るときはきっちり床を敷いた」
ルイーズが静かに続けた。
「ようやく、私たちの音がばらばらにならないためのフロアができた……そんな感じでした」
シンシアは、しばらく何も言えなかった。
リディアが書類を取り出し、テーブルに置いた。
「じゃあ、契約書を書こうか」
シンシアが目を瞬いた。
「契約書ですか?」
「あなたはまだ学生だから、フルタイムの雇用契約は難しいけど」
「雇用契約……ですか?」
シンシアは何度も目を瞬いた。
リディアは当然のことのように答えた。
「このバンドは、れっきとした法人なの。私たち三人が出資して持分を持っているLLC。だから、あなたは私たちが雇う最初の従業員になる」
シンシアは、その言葉をゆっくり繰り返した。
「従業員……」
リディアがうなずいた。
「そう。あなたを、うちのバンドの新しいベーシストとして雇う。まずはパートタイムでね」
<0007. 契約書にサインしたあと>
[私の妹がトランペッターをしているバンドがある。リズム・セクションを補強するためにメンバーを探しているそうでね。使えそうな学生はいないかと聞かれたから、君を強く推薦した。君にはそれだけの実力と可能性がある。ただ、ニューオーリンズを拠点にしているバンドという点だけが気にかかる。航空券を含めた経費は向こうが出してくれるそうだから、その気があるならオーディションを受けてみなさい]
グレッグ・ウィルソン教授からメッセージと電話を受けたとき、シンシアは少し迷った。
だが、バークリー音楽大学では、学生が実際の公演やレコーディングに参加することを自然に奨励していた。
だから結局、シンシアはオーディションの誘いを受けることにした。
『これからの経歴に一行でも足しになればいいかな。あのバンドで何回かセッションをやれば、それで終わりだろうし』
ところが今、シンシアは雇用契約書にびっしり並んだ条項を眺めながら、自分があまりにも軽く考えてここまで来たことに気づいていた。
契約期間は一年単位。
年間の最低公演回数。
義務として定められたリハーサル参加時間。
それから、医療目的として認められたもの以外の薬物を使用しないこと?
SNSを利用して問題を起こさないこと?
『まあ、これはバンドの品位を守るための義務だって分かるけど……これは何? 体力と体重を維持すること?』
シンシアは契約書から目を上げ、目の前にいる三人の女性を見た。
『そういえば……』
みんな美人だった。
今はそれぞれ気楽な格好をしていたが、この三人がバンド専用にデザインされたステージ衣装を着て演奏している姿も、YouTubeで見たことがあった。
公演のために体力を維持する必要があるのは理解できた。
シンシアは、三人の身体にぴったり合わせて作られたステージ衣装を思い出した。
『……あ。だから体重も』
「どうしたの?」
シンシアははっとして、契約書へ視線を戻した。
「あ、いえ。気をつけます」
契約書は二部あった。
シンシアは二部とも、最後のページに順番に署名した。
リディアはそのうち一部を受け取って確認し、自分のファイルに挟んだ。
そしてシンシアの分を厚い封筒に入れながら、最後のページに書かれた名前をゆっくり読み上げた。
「シンシア・エスター・レノスキー。いい名前ね。ポーランド系?」
「はい。ポーランド系ユダヤ人です。でも、ハヌカーは祝いません」
「あ……宗教まで聞くつもりじゃなかったの。失礼したわね」
リディアは封筒をシンシアに渡した。
「今は一月の初めだから、まだ冬休みよね。ご両親と一緒に住んでるの?」
「はい。両親はパン屋をやっていて……休みの間は私も店を手伝っています」
「ほかに家族は?」
「兄が一人います。もともとは看護師だったんですけど、今は救急救命士をしています」
リディアが小さく笑った。
「立派ね。私も看護大学に通ってたの。ポップ歌手としてデビューする前までは」
「え……?」
「私も兄が二人いてね。一人はレストランを経営してる。もう一人は沿岸警備隊にいるわ」
リディアは椅子に背を預けて笑った。
シンシアの表情からも少し緊張が抜け、つられるように笑った。
ルイーズが口を開いた。
「私は……」
キャティがすぐに割り込んだ。
「ルー、それはあとでゆっくりにしよう。あんたの経歴を並べ始めたら、この子が怖がる」
するとシンシアが言った。
「ミズ・サン=クレール。ジュリアードに在学されていたころ、コンクールで入賞された記事も見つけました」
言い終えてから、シンシアは少しためらった。
「あ……私、調べすぎましたか?」
「いいえ」
ルイーズは少し笑い、コップを置いた。
シンシアが続けた。
「市議会議員の奥様だということも見ました」
ルイーズが目を瞬いた。
「あら。それは記事には出ていなかったと思いますけど?」
「最近の慈善イベントの案内で」
キャティがにやりと笑った。
「私は?」
シンシアは少しためらった。
「ええと……独学の天才トランペッターだというレビューと……」
「お」
キャティが楽しそうに身を乗り出した。
「それで? ほかには?」
「……ええと、その……」
シンシアの耳の先が赤くなった。
「……同性の配偶者がいらっしゃるって……」
キャティがウインクした。
「そう! うちの奥さん、ほんっと可愛いんだよ。Exactly! My wife is cute.」
シンシアはどうしていいか分からず、顔まで真っ赤になった。
リディアは首を横に振り、キャティを少し下がらせてから言った。
「シンシア。キャティは人をからかうことに遠慮がないの。もし不愉快なことがあったら、すぐ私に言って」
シンシアの目が大きくなった。
「……え?」
「キャティが一線を越えたら、私が止める。新しいメンバーが馴染むことだって大事だから」
「い、い、いえ!」
シンシアは今にも椅子から飛び上がりそうな勢いで、両手を振った。
「違います! ミズ・フィッシャーは、私にとてもよくしてくださっています!」
キャティは肩をすくめ、けらけらと笑った。
「まったく、私と会ってまだ何時間だっていうのに、もうかばってくれるの? なんていい子なんだろ」
するとルイーズは、笑いをこらえるように顔を伏せた。